“支えあい”


最近生活リズムが狂いすぎてこれもなんか不定期更新みたいになってしまってる。まずい。直さないとな(+_+)




先日読んだ評論文は、ざっくり言えば、
老々介護やヘルパー人口減少などの今社会で〈老い〉をめぐる問題とされていることよりも。〈老い〉に対する狭い固定概念が染み付き高齢者を忌避しようという姿勢が定着してしまっていることが本当の問題である、というような内容の文章であった。その中に、「一方通行的に見える介護の場面でも、ケアは双方向的に行われている」というようなことが書かれてあった。



先日放送された『櫻井翔×池上彰 教科書で学べない災害』という番組では、東日本大震災について扱うなかで、「地震発生から10日後に救出された祖母と孫がとっていた行動から、生き延びるためのヒントを探す」ということをしていた。二人はまさに不幸中の幸いで、台所に閉じ込められていたために倒れた冷蔵庫の中にあるものを食べたり、その場にあった漫画を読んだり、布団も隣の部屋から引っ張り出してくることができた。しかし厳しい寒さのせいで足は凍傷で切断寸前のところまで来てしまっていた。それでもなんとか命を繋いでこられた当時を振り返って孫はこう語った。

「一緒に残されてよかった」


この言葉がすごく刺さった。同時に、双方向的とはこういうことを言うのだろうなと思った。シチュエーションは違えど、祖母はきっと孫を心強く思い、不安を少し減らせるだろう。また、孫も祖母を守らなくてはという責任感が生まれ、生きる気力を強く保てるのかもしれない。勝手な解釈だが、2人が互いに“支え”になっていたから、“72時間の壁”を遥かに超えた10日間も生き延びることができたのだと思う。
もし私がその状況で一人だったら、きっとどこかで心が折れてしまうと思う。


その評論文にも、ひとは共同で生きるものだとあった。しかし私たちはそれを改めて意識するようなことはあまりない。
だが、災害など大きな困難にぶち当たった時支えあいということを強く実感する。それを一時的なものとして捉えず、常に転がっているものだと気がつくことが必要だ。

評論文の筆者の主張を繰り返すようだが、もし介護を支えあいではなく困難としかとらえられないのなら、社会そのものに問題があると考える。

私もつい、老いて介護が必要となった人を別世界の人として見てしまう。手術を経験した近親者はいるが、要介護者は近くにいた経験がない。しかし、幼稚園や学校のイベントで、老人ホームやリハビリセンターなどには行ったことがある。そのときやはりどう接して良いのかわからなかった。
また、先日の老人ホームの事件をニュースで聞いた時も、犯人の考えがよくわからないと思った。どうしてそんなこと、と思ったが、評論文を読んだ後で私自身も考え方が間違っていたことに気がついた。

今は身近に要介護者はいないが、いづれ自分が介護者になる可能性は往々にしてある。介護者になる前にこの評論文を読めてよかったと思う。誤った先入観や固定概念のを持っていることは怖いと感じた。