おかわり!


不定期更新になってる。まずい。

とか言いながら5日間も留守にしてました(__)(__)(__)




なぜこんなテスト半ばという半端な日に復帰したかというと、昨日からどうしても言いたいことがあったからだ。







いやー...










白米美味しい!

炊飯器を開けた瞬間の匂い素敵!!

炊きたてのご飯最高!!!






久々に戻ってきたと思ったらそんなことかよ、しょーもな。

という視線を感じながらも、白米のありがたさを痛感している。
テスト期間に食べるとなおさら美味しいんだよなー。
これが太る一因なんだろうけど。


親戚が福島からお米を送ってくれるので、新米の時期のご飯は格別だ。
テスト前にせっかく炭水化物抜いてたのに、テスト期間になって前以上に体重増えるのお決まり。
チャリ通なのに全然痩せない!!!


でもとりあえずお米が主食の日本に生まれてよかったと、食卓に並んだご飯をみるとたまに思う。農家さん方ありがとうございます(’-’*)♪



将来家庭を持つのかわからないけど、そのときまでもそれからもずっと「ご飯に味噌汁に...」というスタイルは変わらないで欲しいな、と思う。明るい声が響く家庭を作りたい。

“支えあい”


最近生活リズムが狂いすぎてこれもなんか不定期更新みたいになってしまってる。まずい。直さないとな(+_+)




先日読んだ評論文は、ざっくり言えば、
老々介護やヘルパー人口減少などの今社会で〈老い〉をめぐる問題とされていることよりも。〈老い〉に対する狭い固定概念が染み付き高齢者を忌避しようという姿勢が定着してしまっていることが本当の問題である、というような内容の文章であった。その中に、「一方通行的に見える介護の場面でも、ケアは双方向的に行われている」というようなことが書かれてあった。



先日放送された『櫻井翔×池上彰 教科書で学べない災害』という番組では、東日本大震災について扱うなかで、「地震発生から10日後に救出された祖母と孫がとっていた行動から、生き延びるためのヒントを探す」ということをしていた。二人はまさに不幸中の幸いで、台所に閉じ込められていたために倒れた冷蔵庫の中にあるものを食べたり、その場にあった漫画を読んだり、布団も隣の部屋から引っ張り出してくることができた。しかし厳しい寒さのせいで足は凍傷で切断寸前のところまで来てしまっていた。それでもなんとか命を繋いでこられた当時を振り返って孫はこう語った。

「一緒に残されてよかった」


この言葉がすごく刺さった。同時に、双方向的とはこういうことを言うのだろうなと思った。シチュエーションは違えど、祖母はきっと孫を心強く思い、不安を少し減らせるだろう。また、孫も祖母を守らなくてはという責任感が生まれ、生きる気力を強く保てるのかもしれない。勝手な解釈だが、2人が互いに“支え”になっていたから、“72時間の壁”を遥かに超えた10日間も生き延びることができたのだと思う。
もし私がその状況で一人だったら、きっとどこかで心が折れてしまうと思う。


その評論文にも、ひとは共同で生きるものだとあった。しかし私たちはそれを改めて意識するようなことはあまりない。
だが、災害など大きな困難にぶち当たった時支えあいということを強く実感する。それを一時的なものとして捉えず、常に転がっているものだと気がつくことが必要だ。

評論文の筆者の主張を繰り返すようだが、もし介護を支えあいではなく困難としかとらえられないのなら、社会そのものに問題があると考える。

私もつい、老いて介護が必要となった人を別世界の人として見てしまう。手術を経験した近親者はいるが、要介護者は近くにいた経験がない。しかし、幼稚園や学校のイベントで、老人ホームやリハビリセンターなどには行ったことがある。そのときやはりどう接して良いのかわからなかった。
また、先日の老人ホームの事件をニュースで聞いた時も、犯人の考えがよくわからないと思った。どうしてそんなこと、と思ったが、評論文を読んだ後で私自身も考え方が間違っていたことに気がついた。

今は身近に要介護者はいないが、いづれ自分が介護者になる可能性は往々にしてある。介護者になる前にこの評論文を読めてよかったと思う。誤った先入観や固定概念のを持っていることは怖いと感じた。

ラズベリー賞


2015年の“最低映画”を決める第36回ゴールデンラズベリー賞ラジー賞)の発表がロサンゼルスのパレスシアターで行われたらしい。アカデミー賞の授賞式を控えるこのタイミングで。(被せてきているんだろうけど)

最低映画に選ばれたところでモチベーションは上がるのか?恥をかくだけじゃないのか?ってかそもそもなぜ最低映画なんぞ決めるんだ?
疑問点ばかりで私には理解しがたい賞だ。
この賞において5冠とか言われてもピンと来ない。

2015年に「博士と彼女のセオリー」でアカデミー賞主演男優賞を受賞し、今年も「リリーのすべて」でノミネートされているエディ・レッドメインが、ラジー賞では「ジュピター」で助演男優賞を受賞する不名誉な結果に。一方、ラジー賞受賞歴があり、その後優れた作品に関わった者に授与される名誉挽回賞は、「クリード チャンプを継ぐ男」のシルヴェスター・スタローンに輝いた。スタローンはアカデミー賞にもノミネートされており、連日受賞の可能性もある。


ちょっと混乱する。誰が何を基準に選んでるんだ...。ってかこの賞意味あんのか?と、思ったけど、「この賞を取りたくない」から演者も監督も編集者も本気出す、みたいなことがあるのかもしれない。努力する目的のベクトルが変わって、それじゃいけないような気もするけど、下が大々的に発表するから上が引き立つし、上が華やかで名誉あるものだから、下はよりその恥辱さが目立って互いに盛り上げ合う効果があるのかな、たぶん。



一見必要ないと思えるものでも、重要な部分を引き立たせるためにはあってしかるべきものってきっとたくさんある。


寝ている時間って勉強しているわけではないから、例えば「予定より長く寝てしまった」「居眠りをしてしまった」場合、すごく焦る。だが、その後の勉強には良い影響も与える。昼間少しだけ睡眠時間をとると、いつも必ず眠くなる夕食後も目が冴えていて集中できる。


また、ドラマを見てしまった後に、たまに罪悪感を感じることがある。

あぁ、また1時間無駄にしちゃった...。という意識が頭の中を埋め尽くす。だが、そのドラマの内容が、評論文を解くヒントになったり小論文のネタになることがある。(これはごく稀なのでリスクは大きいが)


ものは考えようだ。結局要らないものとか必要ないものとかって存在しないと思う。全てのことに意味があって、何かは何かと関係していてそこに必要性があるから存在する。








別にテレビや携帯に費やす時間、睡眠時間を増やせとは言ってないぞ!!!!!!!!!(自分への言い聞かせ)


今日(昨日)、進研模試の結果が帰ってきたのだが、数学の偏差値が見たことがないような数字だった。いい意味で。数学は入試科目としては必要ないので、これが英語の偏差値だったらいいのに、と何度も思った。

そもそも偏差値でこんなに高い数字があり得るのかと調べてみると、偏差値は極端に言えばマイナスや100を超えることもあるようだ。どうせなら100超えてみたかった。





話は全く変わり、
先日私が定期的に通っていた眼科がもうすぐ潰れると聞いて、今後の検診はどうしようかと家族で話していた。理由もわからない突然の知らせに驚いていた。
だが、どうやらその眼科には、約1年間実在の医師に成り済ましていた人がいたらしい。    









...いや待てマジかよ。


がっつり診てもらっていた可能性が高くて怖い。

その人が原因で潰れてしまうのかは分からない。しかし、そのまま続けても病院自体の評判は下がってしまうだろう。
なぜ採用する前に見抜けなかったのだろうか。

まさか自分が成り済ましの医者に診てもらっていたかもしれないなんて考えたこともなかった。病院というものが元々好きではないけれど、もっと怖くなってしまった。

全面的に反対!!


 千葉県流山市立の小学校16校、中学校9校の全校で、運動会や体育祭で行う組み体操を新年度から廃止することが22日、同市教育委員会への取材でわかった。
 組み体操を巡っては、大阪市教委が新年度からピラミッドとタワーを全面禁止する方針を決めているが、スポーツ庁学校体育室では「禁止や廃止は大阪市以外に聞いていない」としており、流山市が全国で2例目とみられ、同県柏市も廃止を検討している。
 流山市では、各地で組み体操による事故が相次いでいることを受け、小学校と中学校の校長会がそれぞれ検討し、「安全を第一に考えて組み体操全般を廃止する」と、市教委に報告した。

廃止...しちゃったんだ...

私が中学校に通っていた当時は、放射性物質が校庭の土に含まれている危険性があるという理由で、3年間で一度もできなかった。
組体操は体育祭のメインと言っても過言ではないと思う。だから3年間ずっとなんとなく物さみしい体育祭だな、と思っていた。しかし先日、弟の体育祭を見に母校へ行ったところ、組体操がプログラムに組み込まれていた。復活してよかったと思った。その矢先の廃止でショックだ。

組体操が危険なのではない。まだ体がしっかりしていたい人たちで派手なものを作ろうとするから危険なのである。高いピラミッドやタワーを作らなくても、人々に感動を与えることはできる。低くても、なんなら無くても。

せめて組体操自体は廃止にしなくても良くないかな...
今回の件、あまり納得できない。


小学生の頃、6年生の組体操にずっと憧れていた。早く6年生になりたいなー。組体操やりたいなー。そんな風に思っていた。でも、いざ組体操をやります、ってなったら、まず自分が倒立ができないという事実に直面し、その他の演技もたくさん失敗して怒られて、辛くて悔しかった。足の裏の皮が剥けた。膝や手は傷ができた。それでも誰も逃げ出さずに練習を重ねた。
本番は、今でも覚えている。普段の練習時はめちゃくちゃ怖かった先生が、最後の演技が決まった瞬間、右手の親指を立ててグーサインを出してくれた。感動した。嬉しかった。がむしゃらに突っ走って成功したことが。みんなで一緒に最後までやり遂げられたことが。

私は人生の中での組体操の経験はこれ1回だけである。たった1回だけど、一生忘れることのできない経験と思い出になった。
こんな感動を流山市民の子たちは一生味わえないかもしれないと考えると、自分のことのように残念だ。


流山は全国で2ヶ所目だと言うが、このまま組体操を廃止する市や団体が増えて、日本のどこに行っても組体操を見ることはできない、という状況にだけはなってほしくない。徹底的に安全面を考慮した上で、できる範囲で組体操を続けていってほしいと思う。

名前募集バーガー


マクドナルド各店で販売されている“名前募集バーガー”の正式名称が、「北のいいとこ牛っとバーガー」に決定したようだ。

先日知り合いがこの商品を購入し、食べたらしいが、中に入っているポテトの量なんか特に写真と実物とでギャップがありすぎるとかなんとか言っていた。

商品って意外とそんなものだ。特に食品は。

製作側は宣伝広告でより良く見せようとする。そこでいかにインパクトを与えられるかどうかというところが勝負の鍵になってくるからだ。
しかし実際に客に売る商品となると、コストの問題だかなんだか知らないが、質が落ちていることが往々にしてある。
この不景気なので目をつぶらなくてはならないところなのだろうけど、消費者の立場からすると、何となく騙されたような気分になるのも事実である。宣伝広告での写真のクオリティーを下げるのではなく、商品自体の質を上げることによって、いつかこの状況が改善されるといいなと思う。

与えられた権利


昨日クラスメイトと選挙の話になった。
彼は今年の参院選までに誕生日を迎えるので、その参院選の時には選挙権が与えられることになる。しかし彼は、「えー行かない。めんどくさいし。」と言った。



まだまだ先のことだと思っていたけど、あと数ヵ月で、選挙権が与えられる年齢が引き下げられてから初めての選挙が行われる。
高3生はクラス内で選挙に行くことができる人とできない人が混在することになる。不公平だなと思う。18歳ですでに社会に出ている人はあまり感じないようなことなのかもしれない。

私は選挙権が与えられたら必ず投票に行こうと考えている。それがきっかけでちゃんと政治を知ろうと思うきっかけになると思う。
高齢化で有権者も高齢者が増え、高齢者が住みやすい社会が作られてしまっている。だが、これから社会を担っていかなくてはならない若い世代は投票に行く人が少なく、ますます高齢者にとって住みやすい社会が出来上がっていく。私たち若い世代が、社会を知り、考え、参加していく必要がある。


今は正直国政のことはよくわからない。しかし、この人に託したくないな、と思うことはある。

以前通学中に駅で立候補者が街頭演説をしているところを見た。その候補者は、有権者にはあいさつをし、私たちのように制服を着た非有権者にはあいさつをしなかった。
また別の日の通学中、横断歩道で街頭演説をする立候補者を見た。その候補者は誰にでも丁寧に頭を下げ、自分の名前を名乗っていた。
私は後者の方が良い印象を受けた。せっかく1票を投じる権利を与えられたなら、すぐ目の前の選挙のことだけではなくこれから先の社会も考えている人に投票したい。そしてその1票が、無駄になることなんてないと思うから、投票には絶対にいくべきだと思う。


今度の参院選投票率が楽しみだ。